ニートだけど12年前の自分に言いたいこと。
ゴミ出しをした朝。
初夏を思わせるような温かい気温と香りがした。昨夜の雨の湿気を一瞬感じたが、今日はカラカラの1日になるだろうと確信した朝であった。
このまま散歩に行きたいくらいだな。
でも部屋でゆっくりコーヒーを飲む方を選んだ。
桜が散ってゆく。
今年は開花が早かった分、葉桜も早い。
今年も桜並木の中をランニング出来て満足だ。
わたしにとっては花見が出来なくとも走ることさえできれば「春」を感じられる事が出来る。
心の中で12年前上京した時を思い出した。
月日が流れるのは思い返せばあっという間だ。
コ◯ナも終息していつか、「あんな事もあったな」と、見えないくせに大きく記憶に残るこのウィルスをのんびりと思い出す日がいつか来るんだろうな。
新入生。新入社員のみなさま。
今は明るくないニュースでまだまだ気が滅入るけど、みなさまの未来は明るいです。
わたしも12年前、まだ見ぬ自分の未来に胸を膨らませ、期待と不安と社会で生きる人間らしい生活を送っていた。
今はニートになったが、それも自分で選んだ道。後悔はない。
クソ真面目すぎる12年前の自分に言いたい。
「未来設計図なんて要らない。転ばない人間なんていない。何回転んだって立ち上がる方法を自分で見つけて、また違う生き方を何度だってしていい。
未来はひとつじゃない。」
12年前のわたしは細かく自らの未来設計図を立てていた。
そんなことをしていたから、一度転んで未来設計図が崩れた時、どうしていいか分からなかった。
好きなとこを仕事にしてもいい。
でも、「自分」が「自分らしく」「生きること」をやめてはいけない。
誰のために生きるのではない。
自分のために生きるのだ。
10代は親の顔色を伺いながら生きてきた。
20代は会社に尽くそうと思い生きてきた。
10代はただがむしゃらに前へ進む。
20代は自分を知るんだ。体力があるから無心で頑張って、失敗しても、また戻ればいい。
でも30代は、そこから学ばなかればならない。
与えてもらうだけではだめなんだ。
自分も与えなければだめなんだ。
自分にも誰かにも愛のある、与えることのできる人間になりたいと思う。
さてと、アラサーニートは葉桜の中、ひとり花見しようかね。
桜が散ってゆく。
満開の桜と、散りゆく桜の花びら。
どちらが美しいのだろうか。
わたしはどちらも美しいと思う。どちらの姿もかけがえのない桜の「本当の姿」なのだから。
終わりは始まりなのだ
厳しい冬がようやく終わりを告げた。
桜も満開。温かな朝陽が心地良く自然と目が覚め、自然と深呼吸をしてたくさんの新鮮な空気を吸いたくなる。
そして布団とお友達だったつい最近の寒さともおさらば。身体が勝手に起き出す。
今日も心地良い朝をありがとう。
なんてね。
こんな陽だまりのような朝を毎日迎えていると言ったらNOだ。
3日に2回、週に4回は前夜の酒が胃に残っている不快感と闘いながら朝なんて軽く過ぎ去ってゆくものだ。
わたしは自分自身を30年間近く外交的な性格だと思っていた。
だが、近年「HSP」、分かりやすく「繊細さん」と呼ばれる「気質」が存在すると話題になってから、自分自身がもしかしたらその「繊細さん」の分類に入るのではないか?と疑問を持ち始めている。
晴れて今年からニートになったがやりたい事も特になく、「ただ時を過ごす」だけの、人生の休み時間。
どうせなら自分ととことん向き合ってみようと、まずは過去を振り返り心に引っかかってきたものを箇条書きしてみた。
親へのコンプレック
過去の恋愛
仕事=好きなこと?なのか??
この3つだった。
そしてこの3つは大人になり日々過ごすにあたって全て繋がってきたことでもあった。
親へのコンプレックからそれを助けてくれた人と大恋愛し、別れがきてその人への想いを心の底に封印した。
でも追いかけたい、追いつきたい、必死で頑張るために上京し、親が進めた仕事に就き、その仕事がまぁまぁ楽しく、仕事の経験、技量をどんどん積み、向上心を絶やさず、仕事仲間上司とも信頼関係も築けてきた。
そして天職だと思い込んできた。
こんな具合である。
親へのコンプレックは数年前に思いっきり本人たちへ、わたしの幼い頃からの思いをぶちまけたからわたしの中ではほぼ終焉している。
今でこそコ◯ナで帰省は出来ないけど「便りがないのは元気な証拠」とお互い思っており、適度な距離を保っている。
問題は恋愛と仕事である。
仕事に関しては今はニートであり今年1年はとにかく考える期間と決めているので今は急がない。じき壁にぶつかるであろう。
なので、今は「恋愛」について、これまでの自分の恋愛と自分の気質に対して、思いっきりフォーカスし洗い出したいと思う。
そして自分自身を知りたい。
何から手をつけて良いか分からずここ数日間、本を読み漁り「何か」を植え付けた。
それが芽を出さずに自分の奥底で枯れてしまうのが嫌だなと感じた。
同じように恋愛で悩み苦しみ、ずっとモヤモヤしている人達はたくさんいるんだ。
同じように共感してくれたら、嬉しいな思う。
だから少しずつだけど、わたしの経験と本やいろんな場面でインプットした事。
それをこの場でアウトプットさせて貰えたらと思う。
次回より、わたしのアウトプットにお付き合い頂けたら嬉しいです。
30代になり20代の恋愛を振り返る【妄信編】
20代の恋愛に対して、30代になって振り返る。
もしかしたらわたしはあなたへ期待していたのかではないか?
あなたがわたしの全てを理解して受け入れてくれる、と。
でもそれはただの「妄信」なのだ。
※妄信とは、むやみやたらに信ずること。
あなたの全てをわたし自身が分かっていなかった。分かってあげられなかった。分かったつもりでいた。
あなたを分かっていないわたしをあなたが受け入れてくれることなどない。
心のどこかでは怖れもあったのかもしれない。
もし受け入れてもらえなかったらどうしよう、と。
ただの「妄信」 恋は「盲目」
ちゃんとあなたを見ていなかった。
期待ばかりして、信頼してあげていなかった。
若い恋愛は「嫌」と思った瞬間に一気に冷めたら終わってしまう。
若い恋愛は「与える」よりも「与えてほしい」が強い。
若い恋愛が終わってしまうと、心に蓋をしてしまい、そのまま心が停止してしまう。
何も乗り越えず乗り越えようとしなかったら、また次に同じ苦しか辛い恋愛がくると、乗り越えられない。
乗り越え方を知らないままなのだ。
そうやって、わたしは乗り越えられずに20代の恋愛を経験した。
かつて愛した男を心のどこかで引きずったまま、大人になってしまった。
大人になり、出会った。
よく「客観的に自分を見ろ」と言ってくれた人。20歳そこそこで知り合った人。
わたしは「客観的に見る」ということが当時よく理解できなかった。
「人から自分がどう思われているかよく考えて行動、発言しろ」その人はずっとわたしに言い続けてくれた。
少しずつ自分がその言葉を理解して、変わっていく感覚があった。
若い恋愛を乗り越えられずにいたわたしは、いつのまにかその人の言葉は心に突き刺さり、当たり前にわたしの隣にいてくれる人となり、大切だと思えるようになった。
かつての若い恋愛とは違う「何か」があって、わたしはそれが「好き」という感情だと気付いた。
「与えてほしい」よりも「与える」、「尽くしたい」とすごく思えた。
その人がわたしの生涯のパートナーとなった。
何度も何度も別れたいと思ったが、そのたびに腹を割って話して、互いを正して、認めて、受け入れて、赦す。
若い恋愛ではできなかった「赦す」ことを彼とわたしは普通に行ってきた。
「妄信」「恋は盲目」そのようなものはもうわたしたちの間には存在しない。
かつて愛した男への淡い恋心が再び疼き出しても、それがわたしにとってはただの妄信であり、叶わないものだと期待しては残念と思うだろう。
30歳を過ぎてやっと振り返ることができた20代の若い恋愛。
ずっと心に蓋をしていたものを開けてみて、いっそのこと全てを捨ててしまおうかと思うくらい心が疼いたけど、またもわたしを引き止めてくれた隣にいてくれる人。
わたしはこの先どんなことがあっても、1番近くにいてくれる人を離さない。
30代の恋愛は恋ではなく愛である。
参考著者【20代にしておきたい17のこと〈恋愛編〉本田健】
恋の天秤
ここ数日間、わたしの脳内はお得意の「思考停止」に陥っていた。
ただ過ぎゆく日常で、本を読み漁り脳内に「何か」を植え込んでそのまま。その植え込んだ「何か」が芽を出すことは無いかもしれない。
「思考停止」の理由は分かっている。
かつて愛した男の行方が気になり過ぎたから。
危険だ。「恋の反芻」こそ危険なことは無い。
「想いを馳せる」なんて綺麗なモノではない。
責めたい気持ちと、わたしも悪かったよ、ごめんね。という気持ちが天秤にかかっている。
その天秤はその日によって傾きが違うのだ。
だから自分の脳内では対処しきれずに、勝手に「思考停止」をしている。
わたしは天秤座の女だ。
天秤座は常にふたつの事柄を天秤にかけている。
思い返すとわたしの人生は常に、ふたつの事柄を己で天秤にかけてきたように思う。
そこに損得もあっただろう。
現在のわたしの中の恋の天秤。
「あなたが悪いのよ。わたしも悪かったよ。」
これが、どちらに傾くのか。
そもそも相手の男が勝手に別れを決めて勝手に去っていったのだから、あなたが悪いよ。
でも何故、あなたが別れを決断したのか?わたしに原因があったから?わたしが悪かったの?
このふたつのわたしの恋心はずっと平行線なのだ。
だから天秤にかけている。
今日(こんにち)、どちらかの傾きが強ければ強い方が「安心」するのだ。
そうやって何年も何年も心の奥にしまい込んだ「恋の天秤」は密かに活き続けている。
どうしようもなく、誰でも言えないから苦しい。
だからここに書き記すことしか出来ない。
いっそのこといきなり会いに行って、ぶん殴って責め立ててやろうかとも思った。
それが出来る方が楽なのかもしれない。
わたしの脳内、「恋の天秤」は自分も悪いんだ、という思いもあるから、それが出来ない。
もうどっちなんだ!と書いている自分、そして読んでくれている人、イラつく領域だろう。
そうなんだ。だから「恋」なんだ。
ふたつの善と悪の想いがずっとずっと平行線。交わることは無い。
その平行線が交わる時、始まりがきたり、終わりを迎えるのだろう。
もうとっくに終わっているわたしの「恋」は
心の底で今もなお天秤にかけられている。
もしも、「あなたを責めないわたし」になったらようやく終わりになるのかもしれない。
あなたのこともわたしのことも「赦す」ことが出来るのかもしれない。
「愛の深さ」「愛を感じる強さ」
自分で言うのもなんだけどわたしはこれらが、深すぎて、強すぎるのだ。
最高の良いところでもあり、最悪に悪いところなのだ。
#メンタル
ミテクレではなくわたしが本当に欲するものを。
何でもやり始めるまでがめんどくさい。
起き上がったしまえば二度寝することはないのに。
お湯を沸かしてしまえばコーヒーを淹れるのはどうってことない。
顔を洗えば、化粧水を塗りそのまま日焼け止めを塗る。いつだって出かける準備はOKになる。
「キッカケ」さえ作ってしまえばあとはおのれが動くのみ。その「キッカケ」を怠れば、もう「面倒くさい」で片付いてしまい、もしかすると二度と行動に移されなくなる事柄もあるかもしれない。
面倒なことをめんどくさがらず、無意識にただひたすらと毎日行えることが「習慣」
こんなわたしでも外へ出る=ランニングだけは「習慣」として続いている。と、いうかよっぽど体調が悪くない限りは走る。もしくは歩くくらいのペースで走る。(もやはランニングというより速歩きだが)
わたしは「習慣」を欲している時期があった。
何となく「習慣」や「ルーティン」がある日常によって、「わたしはやってるのよ」感が欲しかったのだと思う。要は「ミテクレ」だ。
SNSに載せるための「行動」をあたかもおのれの習慣やルーティンに無理やり当てはめようとした。
もちろん、こんなことは続くはずもない。
「ミテクレ」ほどおのれを害するものはない。
そもそもミテクレは習慣の概念とは当てはまらない。
ミテクレは習慣のように無意識にただひたすら好きに出来る行動ではないからね。
ミテクレを作るために面倒な行動をとるおのれに嫌気がさし、やっぱりわたしには二日目の味噌汁に冷やご飯をぶち込み卵を溶きほぐし、ネギと胡麻油を入れた「ねこまんま雑炊」が性に合っているんだ。
わたしのミテクレは「服装」にも現れていた時期があった。
雑誌から抜きとったようなファッション。メイク品。通販大好き。とにかく流行りモノが大好きだった。でも高級品とは言わず、おのれの給料の範囲で楽しんでいたつもりだった。
酒とタバコが大好きで、服やアクセサリー好き。1人で飲んでれば飲み屋のおねいさんにほぼ間違えられた。童顔なのに笑
そんなわたしが昨年末、大大大!断捨離をした。
身につけるものはスマートウォッチ、ネックレスひとつ、イアリングひとつ、靴ふたつ、ダウン、ジャケット、黒スキニー、ニットのセーターふたつ。あとはランニングする際のウェアふたセット。これ以外全て手放した。カバンもランニング用のリュックひとつのみ。(あとは下着3日分)
わたしにとっては究極の断捨離だった。
何故ここまでの断捨離をしたか?はいつかお話ししたい。決してミニマリストになりたかったのではない。
「ミテクレ」に左右されず、本当に自分にとって大事なものは何なのか?を知りたかった、ということだ。
でもその答えは未だ出ていない。
そして季節の変わり目の今、わたしは着る服がなく焦っている。
ここで、とりあえず着るものの調達をしよう!とはいかなかった。
それをしてしまったら、おそらくまた「ミテクレ」で選んだガラクタでわたしのクローゼットはいっぱいになってしまうと思ったから。
さて、わたしはこの春、何を求め手にするのか。
わたしが心から欲する、今だけじゃないミテクレ。流行りがなくずっと大切にしたいと思えるアイテム。
「いつも綺麗な格好してるね、それ可愛いね、どこで買ったの?」
じゃなくて、
「それ素敵!似合ってるよ!らしい!」
がいい。
わたしらしさ。今わたしが1番求めるものはそれかな。
2週間前、ひとつのアイテムを買った。
フェイクレザーの黒いライダース。冬でもライダースを着るくらいわたしにとっては普通で当たり前にあったもの。いなくなってどこか寂しかった。
安物だけどこれから世話になるよ。よろしくね。
卵と米と油。炒飯の話。
朝目覚めて、ベットの上で仰向けになり呼吸を整えてみた。
目を軽く閉じて、自分の呼吸だけに意識を向ける。
吸う息の倍、息を吐く。
なんちゃって瞑想だ。
気が向いた時にいつもなんちゃって瞑想をしてるのだが、今日はなんだか調子がいいみたいだ。
そのまま起き上がり、カーテンを開ける。
あぐらをかいて、再びなんちゃって瞑想をした。
吸う息4秒、吐く息8秒。なかなか8秒までいかなければ6秒。無理はしない。
5分はできた。今日は上出来だ。
瞑想は心の筋トレだ。
以前から瞑想には興味があり、マインドフルネスを少しずつ勉強している。
なかなかうまく瞑想は出来ないが、続けることが1番なので、無理せずやろうと思う。
目覚めがスッキリしたところで、白湯を飲みつつ、ぐーたら。
お腹が空きそうだ。朝昼兼の食事は何にしようか。
やっぱりここは炒飯だよね!←簡単早いから。
チャーハンを作るコツはたったのふたつ。
スピードと調味料を用意してからのスタート。
冷蔵庫探索。
春菊とピーマンに決まり。ネギがないので少し香味っぽいクセの強い野菜が欲しかった。
チャーハンは残り物野菜で作れる無限レシピ料理だ。
春菊とピーマンを細かくカットする。卵2個を割ほぐす。調味料を準備。本日は、塩胡椒、鶏ガラの素、醤油。
ご飯2杯分を用意して始めよう!
いつものように中華鍋を煙が吹くくらいガンガン熱する。油を馴染ませて、卵をじゅわ。ご飯投入!リズムカルに鍋を振り、カンカンと頭の裏で卵が覆い被さったご飯を優しく叩く。
町中華料理屋さんって中華鍋の振る音と頭を叩く音と言ったらそりゃつまみにもなるくらいのBGMだと思う。
このリズム感は大事だろう。スピーディに作るコツに繋がる。
そもそもの話。1番大事なことを忘れていた。
「リズムカルに鍋を振る」ことに当たって、ご飯を入れすぎてはいけない。
この卵とご飯の量、付け加えるなら油の量も大事だ。
先日、チャーハンを2人分作る際、横着してしまいご飯を1.5合分を入れてしまった。なのに卵は2個しか使わず。
もちろんうまく中華鍋を触れず卵と油と米が混ざらずベッチャリ、そして何故か焦げた。
うまく鍋が振れないから味も馴染まないのだ。
ここで、初心に還り横着をしてはいけないなと思った。
中華鍋で作る意味。油が大事な役割を担う意味。
そして今!わたしは初心に還り、いざ春菊ピーマンチャーハンを作る!!
シャンシャンシャン
カンカンカン
シャンシャンシャンカンカンカン
繰り返されるBGM。わたしが奏でるBGM。
そして再びラードを加えてチャーハンをコーティングしてあげる。
味見をする…うん、いいね!
今日のチャーハンは大成功!チャーハン作るのは数分だが、この素晴らしい完成に至るまで準備と緊張を強いられる。わたしは今、自身の緊張に勝ち、自分オリジナルの美味しいチャーハンを食すのだ!
この卵とご飯と油の最高なる高め合いのコラボ。基本の調味料さえしっかり揃えればあとは何の食材でも構わない。わたしはいつでも無限レシピとなる料理が好きなのだ。
二日目の味噌汁。わたしがわたしへの餞の言葉
天気が良く気持ちのいい朝だ。
だけどもここ2.3日のわたしは少し沈み気味。
特に何があった訳でもない。
原因不明のもやもやほどもやもやすることはない。
この気持ちのいい陽気は春の訪れ。
公園へ散歩に出かけると桜の蕾が見えた。
「桜の蕾も大きく膨らみ、春はもうそこまで来ています。
今日私たちはこの〇〇小学校を卒業します。」
これはわたしの小学校卒業式の6年生の餞の言葉の最初のフレーズ。
この時期になるといつも思い出す。
と、言ってもそこまでの思い入れはない。
ただ、このフレーズが好きなだけなのかも。
春は出会いと別れの季節と言うがまさにそうだな、と思っている。
と、言っても春にそこまでの思い入れはない。
子供の頃は「卒業」を経験してきて、大人になった時に「上京」した。
誰もが通るであろう道を何事もなく通ってきたはず。
だから、春にそこまでの思い入れはない。
でも何故か桜を見たくなる。
桜と梅の違い。
梅は上を向いて咲く。桜は下を向いて咲く。
だからみんな桜を見上げるんだ。
だからみんな花見をするんだ。
昔そう教わったな。
上を向く人々。下を向く桜の花。
偶然だろうけど、すごく素敵な光景だと思う。そして、桜は日本で生まれた花だからまた尊く、美しさを増すのだろう。
何度も言う、春にそこまでの思い入れはない。
だけど、毎年桜が咲くのを楽しみにしている。
そして偶然なのか必然なのか。
上京してから引っ越しを何度かしたが、全て「桜の名所」と呼ばれている土地に住む自分がいる。
今年も花見こそは出来ないが、散歩でもしながら一年に一度きりのピンク色に包まれながら酒を少しだけ煽りましょうかね。
桜のことを話していたら早くもお酒を飲みたくなってきた。まだ朝が早いから少し我慢。
その前にお腹を満たしましょ。
昨日の残りの冷やご飯と味噌汁。
メニューは決まり。雑炊!
でも普通の雑炊じゃつまらない。冷蔵庫探索。
キムチがある。辛いものは今の気分にピッタリだ。キムチ雑炊に決定。
残り少ない味噌汁に少し水分を足す。
キムチを入れる。旨味が薄いので味噌、砂糖、顆粒出汁を追加。
冷やご飯を入れてぐつぐつ。卵を入れてネギを好きなだけ散らす。
美味しいキムチ雑炊の出来上がり。
というか、肉を加えてキムチクッパと呼んでもいいくらいだ。
二日目の味噌汁はわたしの上京したての貧乏生活を支えてくれた。味噌汁なのに二日目は別の調味料を加えて味変したりもした。
え?と思うかもしれないけど、これはこれで野菜の出汁がとろけて美味しいのだ。
二日目のカレーならぬ二日目の味噌汁はわたしにとってレシピ無限に値する。
料理は想像力。
仕事ではない限りレシピ通りにしてもしなくてもいい。
わたしは料理を仕事にしてレシピ通り作ってきたが、家庭料理は自由に創作している。
おっとと…
桜の話から味噌汁の話になってしまい、結局のところ頭の中はいつも忙しいわたしなのだ。
でも、コ○ナ禍で暗い話題ばかりだけど、今年も桜が咲く。
わたしのように二日目の味噌汁をどうしようかな、くらいの平凡な日々を、当たり前の日々こそを大切に生きよう、と思う。
それが大人になって「卒業」がなくなった、わたしがわたしへ、わたしのための餞の言葉だ。