ニートを楽しむただの女

何もない持ってないし要らない人間のやること。心の解放と言葉の居場所を。

自分のコンプレックスを投影した恋愛の末

 

ランニングをした後、公園のベンチで散りゆく桜を眺めていた。

「桜吹雪」という言葉がぴったりな風景。

今年も桜は見納めだ。

 

そんな風景と共にあるのが、子供たちが遊ぶ姿。小さい子供から中学生くらいの男女。

走り回ったり、ボール遊びをしたり、女の子はベンチで携帯を見ながらキャッキャ楽しそうだ。年頃だから好きなアイドルでも見ているのだろうか。

 

わたしも子供の頃はよく公園で遊んだな、、

小学校までは男の子と混じって「本気」のかけっこをしていた。今思うとかなり危険なかけっこだったな。

中学生になると部活にのめり込んで、友達と遊びに出かける事が少なくなった。

そのまま学生時代を過ごすのだけど、周りの子達は電車に乗ってお買い物をしたり、お泊まり会をしたりしていたよう。

わたしの家は親が厳しかった為に、ほとんどそういった記憶はない。

電車に乗ってお買い物へ行くときは、誰とどこへ行くか、何時までに帰るか、など細かく報告しなければならなかったから、当時は友達関係の事で言い合いになる事があった。

 

よく思い返すと、「親へのコンプレックス」があったのだなと思う。

 

そのコンプレックスが、のちの恋愛へと繋がり、終わってしまった恋をずっと引きずっていたのだ、とようやく気付いた。

 

どうしてあの人を好きになったの?

 

よく言うのが「自分にないものを持っているから」「尊敬出来るから」

 

まさにわたし自身もこの思いが先立って、あの人を好きになった。

 

確かに、わたしが苦手な事をさらっとやってくれるから一緒に生活してるとすごく助かる、というような生活の中でお互いの苦手な部分をお互いが補うというのはすごくいいと思う。

 

でも気付いた。

好きになる人へ自分自身の内面的なコンプレックスを知らぬ間に投影してしまっている、と。

 

つまり、自分がこうなりたいという理想を好きな人が持っていたら惹かれるのだと思う。

 

当たり前のことを言っているようだが、わたしはこの「投影」の底無し沼にハマりかけていた。

 

わたしは親へのコンプレックス、厳しすぎる親が嫌だったし、自分のしたい事や気持ちを言うことが出来ない子だった。

好きになったあの人は、当時高校生、自分の意思で親元を離れて寮生活、高校中退してしまったが親戚の営む飲食店で働き自分で生計を立てていた。

同い年なのに自分の意思でどんどん進むんだな、、親も応援していたようだし。

わたしは羨ましかったのだ。

自分にはそれが出来ないから。親のレールの上しか歩いていなかったから。

そこから外れる事ができなかったから。

そして、そんな彼と一緒にいる事で自分までもが少し大人びてる感じがしていた。

 

その彼は一方的に別れ話をしてわたしの前からあっさり去っていってしまったから、なおさらわたしの未練は残ってしまったのだが。

 

 

自分自身の子供の頃のコンプレックスから、若い頃の恋愛、大人になった今でも何かがモヤモヤしている心の中。

わたしの場合、全て繋がっていた。

 

自分自身の「気質」というかどんな人間なんだろうと深く深く追求していくにつれて、少しずつ繋がってきている。

 

わたしのかつて愛したあの人。大人になる前に別れ、心の底で気持ちにフタをしてしまったから分からなかった。

同じ「好き」でも、大人になる前と、大人になった後では違う。

 

あの頃の「好き」が再び疼いたら、またわたしはかつて愛した人へ今度は今の自分の中のコンプレックスを「投影」するだろう。

 

だけど、それは「愛」ではないのだ。

 

 

あなたとわたしは生きてきた道が違う。

これからも生きてゆく道が交わる事はない。

 

 

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豆腐と豚挽肉とニンニクの芽のスタミナ炒めで乾杯。